漆琳堂の創業家である内田家は代々漆掻きを生業とし、
江戸時代には漆の庄屋格を拝任しました。

4代当主勇蔵は漆塗り業にも乗り出し、
産地における職人としての道を拓きました。
5代当主忠吉はその道を継ぎ、
木地調整、下地、塗りと漆の一貫生産を確立。
6代目当主忠重、7代目当主清治は太平洋戦争で
世の中が激変する中、販路の拡大に努め、
全国の漆器店に納入するまで事業を広げました。

漆は日本が育んだ世界最高の塗料であり、
今なおその実用性と質感に代わるものはありません。
漆琳堂は生粋の漆の使用にこだわり、
ひとつひとつの製品を手作業で丁寧に仕上げています。
長く愛用される漆器は人から人へ、親から子へ伝わるもの。
そして、日本が世界に誇る文化です。

寛政5年(1793年)の創業以来幾多の困難も経験しながら、
その時節時節に適う漆器業を続けてきた漆琳堂。
私たちは今日まで受け継がれてきた漆器の魅力と
日本の漆文化を後世に伝えてゆきます。

内田忠左衛門

1774~1838 安永3年〜天保9年
越前国鯖江藩生まれ。1793年(寛政5年)常盤棚倉藩へ鯖江藩のお抱え技師として移住。棚倉(現福島県)にて「越前屋」を創業し漆業を起業。藩より「庄屋格」を受ける。また時代の流れを背景に隆盛を誇る。

初代 内田忠治郎

1779?~? 安永8年?〜?
越前国鯖江藩生まれ。1793年(寛政5年)兄・忠左衛門が棚倉藩へ移住につき家督継承。越前鯖江にて漆業を営む。よって「忠治郎」を越前内田家の初代とする。

二代 内田忠治郎

1815~1889 文化12年~明治24年

三代 内田忠左衛門

1835~1894
漆業(漆掻き業)を継承。妻を早く亡くす。子どもがいなかったため多田孫右衛門から養子縁組し、勇蔵を嫡男とする。

四代 内田勇蔵

1859~1919 安政6年~大正8年
多田家より養子として内田家に入る。漆業を営み栃木県、福島県など各地へ漆掻きに出る。(漆掻きの道具が残る※写真01) 那須郡須賀川村(現栃木県大田原市)の漆山の売買証が残る。※写真02
写真01 漆掻きの道具(江戸時代後期:漆琳堂所蔵)写真01 漆掻きの道具(江戸時代後期:漆琳堂所蔵)
写真02 漆山の売買証(大正期:内田家所蔵)写真02 漆山の売買証(大正期:内田家所蔵)

五代 内田忠吉

1885~1940 明治18年~昭和15年
父・勇蔵の下、漆掻き業から漆塗り業(塗師屋業)へとなる。内田忠吉商店の創業。塗師屋業を営みながら中京地区名古屋市岐阜市など消費地への販路を開拓。八重椀(冠婚葬祭に使う8ツの組椀)2,000組(計8,000客分)の扱いが残る ※写真03木地~下地~上塗り、の一貫生産を行い、多くの職人を雇用する。当時の産地内で有数の漆器業社になる。
五代 内田忠吉 / 写真03:八重椀扱いの資料(漆琳堂所蔵)五代 内田忠吉 / 写真03:八重椀扱いの資料(漆琳堂所蔵)
太平洋戦争 1941~1945(昭和16年~昭和20年)

六代 内田忠重

1926~ 昭和元年~
1952年(昭和27年)内田忠吉商店を継承し、内田忠重漆器店とする。塗師屋業を継承し、販路を広げる。 1988年(昭和63年)法人化「㈱漆琳堂」に社名変更、新社屋移転、代表取締役。

七代 内田清治

1946~ 昭和21年~
塗師屋業を継承、東京・大阪の業務用漆器に販路拡大 1998年 当主漆琳堂代表となる 1995年~05年 越前漆器協同組合に理事として10年間に渡り従事 2006年(平成18年)日本漆器協同組合連合会から永年の産業振興が認められ表彰される。

八代 内田徹

1976~ 昭和51年~
塗師屋業を継承。 父、祖父に師事。 2009年 自社ブランド「aisomo cosomo」を立ち上げる。 2012年 産地最年少で伝統工芸士となる。 2012年 「お椀や うちだ」をデビューさせる。 2014年 経済産業省「がんばる中小企業300社」に選定される。 2016年 「漆琳堂直営店」オープン 2016年「aisomo cosomo」が近畿経済産業局クールジャパン商品に選定される。 2020年 時点、㈱漆琳堂 創業227年。漆業を経て塗師屋業を営む塗師工房。 現代表八代目徹継承。